1.東西野遺跡(とうざいのいせき)、土器など多数出土

写真:パレススタイル土器

円窓付土器(まるまどつきどき)、パレススタイル土器などという種類(しゅるい)発掘(はっくつ)されている。これらは佐織歴史民俗資料室(みんぞくしりょうしつ)で見ることができるんだよ。


2.勝幡城(しょばたじょう)(きず)かれる

写真:左「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」、右「勝幡城址 愛知縣」

織田信長のおじいさん、信定(のぶさだ)が城をつくり、ここで信長が生まれたという説もある。城跡(しろあと)は勝幡町と稲沢市平和町にまたがっているよ。


3.山口重政(しげまさ)、大野城の戦いに勝利

写真:大野城址

現在の佐屋地区大野町にあったとされ、昭和54(1979)年に記念の()が建てられた。かつてここでは、豊臣秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」のきっかけともいえる「蟹江・大野合戦(かにえ・おおのかっせん)」があったのです。重政は母を人質(ひとじち)にとられながらも、家康側に味方し、みごと勝利!徳川天下取りの基礎(きそ)を開いたんだ。


4.佐屋路(さやじ)が開かれる

写真:佐屋海道址

東海道の中で唯一(ゆいいつ)航路(こうろ)として知られる「七里(しちり)の渡し」は海の難所(なんしょ)だった。そこで脇街道(わきかいどう)として開かれたのが「佐屋路」というわけ。熱田から佐屋まで陸路(りくろ)六里、そこから桑名まで水路三里の道のりは「三里の渡し」といわれ、七里の渡しより距離も長く、時間もかかったんだけど、海よりも安全で大名、文人、女性や子どもの旅人がよく利用したんだ。


5.松尾芭蕉(まつおばしょう)が佐屋宿へ泊まり、水鶏(くいな)の句をよむ

写真:松尾芭蕉句碑

俳句集「奥の細道(おくのほそみち)」で有名な芭蕉が、故郷(こきょう)の伊賀の国へ帰る途中にこの地に立ち寄り、
水鶏 (くいな) () くと (ひと)云へはや (いえばや) 佐屋泊 (さやどまり)」という句をよんだと言われている。「水鶏の鳴き声が聞かれるという、その風流(ふうりゅう)さに心を引かれて佐屋に泊めてもらうことになった」という意味で、宿泊(しゅくはく)を誘ってくれた家の主人に対するお礼の気持ちの表れた句だよ。
俳句には季語をおりこんで5・7・5(おん)でよむのだけれど、この句は「字あまり」となっているね。水鶏は夏の季語にあたる。水辺の草地に住んでいるツル目クイナ科の茶色っぽい鳥で、春から秋にかけて本州のあちこちで見られ、カタカタと高く鳴くんだ。


6. 元服(げんぷく)のお祭り「オビシャ」が白山社(はくさんしゃ)で始まる

写真:元服のお祭り「オビシャ」の様子

約300年前に始まった、満15さいになった男子の元服、今で言う成人式だね。八開地区定納(じょうのう)の白山社につくられた高さ約5mのやぐらからもち投げをする。下では町の人々がもちを拾いあうんだ。その高いやぐらに登れてこそ一人前の男子と認められたものだけれど、今では年齢(ねんれい)と関係なく若者が上っている。毎年2月11日に行われ、たくさんのおもちが投げられるよ。


7.横井也有(よこいやゆう)が「鶉衣(うずらごろも)」上巻をまとめる

写真:鶉衣(うずらごろも)

八開地区ゆかりの武士(ぶし)でありながら、和歌、謡曲(ようきょく)書画(しょが)漢詩文(かんしぶん)に通じた多才な人で、文学史上に多くの功績(こうせき)を残したんだ。代表作の俳句集「鶉衣」は、也有のあか()けしたユーモラスな人間味(にんげんみ) があふれている作品として知られているよ。下巻は4年後の寛保2(1742)年にまとめられたそうだよ。


8.江戸幕府の命令で「宝暦治水(ほうれきちすい)工事」が行われる

写真:宝暦治水工事

薩摩藩(さつまはん)=現在の鹿児島県の武士たちによって、木曽(きそ)長良(ながら)揖斐(いび)三川(さんせん)を分ける工事が始まった。約2年がかりで完成したのだけれど、技術力(ぎじゅつりょく)がまだ(とぼ)しい時代だから、実際にはその後も洪水(こうずい)がなくなることはなかった。でも、その工事の苦労に人々は感謝(かんしゃ)後世(こうせい)まで語りつがれ、昭和13(1938)年に治水神社が建てられたんだ。


9.津田正生(つだまさなり)が「尾張地名考(おわりちめいこう)」を(あらわ)

写真:津田正生の碑

佐織地区の根高(ねだか)で生まれ儒学(じゅがく) を学び、和漢の学問を (きわ)めた彼は、みずから雑学家(ざつがくか)と名乗り、地誌(ちし)随筆(ずいひつ)戯作(げさく)など多分野にわたる著作(ちょさく)を残した。なかでも尾張地方の地名の由来(ゆらい)をひもといた、この「尾張地名考」が有名だよ。


10.平野龍天(ひらのりゅうてん)陽南寺(ようなんじ)でレンコンを育て始める

写真:陽南寺

愛西市名産のレンコンを最初つくり始めたのは、このときだとされているんだ。陽南寺は現在の立田地区戸倉(とくら)にあるお寺で、その住職(じゅうしょく)だった平野龍天という人が、近江(おうみ)=現在の滋賀県からハスの種を持ってきて寺の田で栽培(さいばい)したことが始まりだろうと言われているよ。


11.オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ、木曽川(きそがわ)調査を始める

写真:像 オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ

宝暦治水(ほうれきちすい)から約120年後、江戸幕府から明治政府に変わって、海外のすぐれた技術で洪水をふせごうとした。やはり低地が多く技術の進んでいるオランダから彼を(まね)いたんだ。いよいよ、ここから完成まで長い歳月(さいげつ)を要する一大事業が始まった…。


12.山田芳男(よしお)(丸島コロンブス)、 漂流(ひょうりゅう)の末、サンフランシスコに(わた)

写真:丸島コロンブスの碑

漁の最中(さいちゅう)(あらし)にあい漂流(ひょうりゅう)してしまったところを、アメリカの捕鯨(ほげい)船に助けられそのままアメリカへ渡ったんだって。ブドウ栽培事業(さいばいじぎょう)で成功を収め、帰国後も出身地の二子町丸島(ふたごちょうまるじま)(もも)の栽培に取り組んだり、同じようにアメリカに渡りたい人の助けをしたので、北米移民(いみん)先駆者(せんくしゃ)として「丸島コロンブス」と呼ばれるようになったんだ。その功績(こうせき)をたたえ石碑(せきひ)も建てられたんだ。


13.木曽川分流(ぶんりゅう) 成功式が行われる。旧佐屋川はうめられ、立田地区は 輪中(わじゅう)でなく地続きとなる

写真:木曽川分流

ヨハネス・デ・レーケは、三川を完全に分流させるために、あみの目のように入り組んでいた支流をなくし、輪中をけずるところもあれば土をうめることで曲がっていた川の流れをスムーズになるようにしたんだ。なかでも今わたしたちが 背割堤(せわりてい) とよんでいる堤防をつくり木曽川と長良川を完全に仕切ったことと、木曽川の支流だった佐屋川をうめてしまうという 大胆(だいたん)発想(はっそう)で輪中であった立田を完全につないでしまったことが、これまでにない大工事となったんだ。


14.船頭平閘門(せんどひら こうもん)が完成する

写真:船頭平閘門

閘門とは、海峡(かいきょう)や川が(とな)り合わせになっている場所で水位差がある場合、船が行き来できないため、2つの門で水を一度せき止めて水面の高さを調整して、船を通行できるようにするための設備のこと。木曽川と長良川でも水位差が約1mあったため、明治32(1899)年から建設が始まり、この年に完成したんだ。現在は平成6(1994)年に改修されたものが使用されていて、当時のものは公園内に展示されているよ。明治期につくられた数少ないものであることなどから、平成12(2000)年、国の重要文化財に指定されているんだ。


15.加藤高明(かとうたかあき)内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)、この年「普通選挙法」を成立させる

写真:加藤高明

1860年、佐屋生まれ。28さいで外務省(がいむしょう)に入り、42さいで衆議院議員に当選。外務大臣を4回経験し、65さいで内閣総理大臣になった人物。
今では20さいを過ぎた大人はみな選挙権があるのはあたりまえだけど、昔は税金をたくさん納めている人しかなかったんだ。その仕組みを変え、全ての成人の男性に選挙権を与える「普通選挙法」を成立させたよ。


16.海部幹線(かんせん)用水路が完成する

写真:海部幹線用水路

通称(つうしょう)佐屋川用水とも呼ばれているこの用水路は、木曽川大ぜきから取り入れた水を必要なときに田に送り、またいらなくなった水を流せるように排水分離(はいすいぶんり)がされている。このおかげで農家の人々はとても便利になったんだ。


17.奥津社(おくつしゃ)から三角縁神獣鏡(さんかくぶち しんじゅうきょう)が発見される

写真:奥津社

奥津社周辺は4世紀中ごろにつくられた古墳(こふん)。古鏡「三角縁神獣鏡」3面のほか、多くの土器(どき)も出土している。三角縁神獣鏡という名は、鏡の(ふち)の断面が三角形をしていて、つまみを取りまく内側に神様や(けもの)模様(もよう)として彫られていることから呼ばれているよ。



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